「僕が子供だったころ」 ケストナーと20世紀初頭のドレスデン 朝日カルチャーセンター立川 2015年8月公開講座 |
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ケストナーのごく簡単な紹介 エーリッヒ・ケストナー
Erich Kästner (1899-1974) は、ドイツ東部の古都ドレスデンDresdenのごく庶民的な家庭に生まれ、両親の期待を一身に背負いながら育ちます。第一次世界大戦での兵役を終えた後、念願の大学での勉学に励みました。ベルリンで新聞の文化欄の編集をしながら執筆活動をしているとき、出版関係者の勧めで、児童向け物語「エミールと探偵たち」Emil und die Detektive(1929年)を執筆しました。大評判となったこの著作に続き、子供を主人公とした物語を次々と発表していきます。それらの作品は、各国語に翻訳され、映画化され、瞬く間にケストナーは人気作家となっていったのです。しかし1933年、ナチが政権につくと、すぐに各地で「非ドイツ的な精神に対する行動」として、ナチズムの思想に沿わない書物を公開の場で焼く「焚書」が行われ、5月10日にはベルリンで自分の著作が炎の中に投げ込まれる様子を、ケストナー自身が目撃しています。ナチ政権によって退廃芸術家の烙印をおされたケストナーでしたが、同じ宣告を受けた他の作家のように亡命せずに、ゲシュタポに睨まれながらも終戦までベルリンに居を構え、ペンネームを用いて脚本や青少年向けの話などを執筆し続けました。それが「ナチに抵抗した作家」と云われる所以です。そのレッテルは、もしかしてケストナーにとって面映ゆいものであったかもしれません。本音を語ることを封じられた困難な時代が終わると、自分の偶像が一人歩きしているのに気づいたのではないでしょうか。児童文学で広く知られているケストナーですが、多くの詩作や大人向けの著作も残しています。 → 少し詳しいケストナ−紹介 幼少期を過ごしたドレスデンへの憧憬 1957年に刊行された「僕が子供だったころ」”Als ich ein kleinerJunge war”という自伝的著作は、老境の入り口に立ったケストナーが自分の子供時代を再構築しようとしたもので、児童書というより脚色されたドキュメントとして興味深い著作です。20世紀初頭のドレスデンは、ザクセン王国の都として最後の輝きを放ち、ドイツ有数の活気溢れる街でした。ケストナーがこの本の構想を練り始めた1954年、第二次世界大戦末期に灰燼に帰した故郷のドレスデンは旧東ドイツにあり、破壊された歴史的建造物の再建の目処も立たず、エルベ河畔のフィレンツェと呼ばれた美しい街は、人々の記憶と思い出の中に残っているだけでした。西ドイツに暮らしていたケストナーには、ドレスデンを訪れる許可がなかなか下りず、ドレスデンに住む父親との往復書簡で子供時代の記憶を確かめながら、筆を進めました。この作品には、失われたかけがえのない故郷の情景と、そこで繰り広げられていた日々の暮らしや忘れがたい人々を、ペンの力で生き生きと蘇らせたいという強い思いが感じられます。 前書きの抄訳 自分の作品に登場する子供たちになりたかったケストナー 腕利きの革細工職人だった父親は、近くの町に開いた店の経営に失敗し借金を背負い、活路を求めてドレスデンにやってきました。安価な工業製品におされ、手仕事で作られた製品は売れなくなっていたのです。父親は、昼間工場で働き、夜は革製品の修理や製作に精をだしました。そんな父親に批判的だった母親は子供に情熱を傾け、ケストナーのために身を粉にして働きました。この自伝的な著作には、多感な少年の目に映った両親の苦労や、自分一人に注がれる親の愛情にとまどい、両親の板挟みになって苦悩する姿も描かれています。ケストナーの作品に登場する親思いの快活な主人公と似ているけれども、どこか異なるケストナー少年の姿が浮かびます。 公開講座レジュメ ケストナー家系図 体の中に宿る思い出 「ケーニッヒスブリュッカー通りの48番地、私の幼年時代の2番目の家。もう老境に達したといえる私だが、今、ミュンヒェンで目を閉じれば、足元にはあのアパートの階段の感触、ズボンの尻には腰掛けていた階段の縁の感触が蘇る。(注:この階段は、ケストナー少年が、鉛製のおもちゃの兵隊を操る舞台だった。) …中略… 記憶と思い出は神秘的な力だ。両者のうち、思い出の方がより神秘的で謎めいている。 … 私達の頭の中には、学んだすべてのことを入れておく記憶の引き出しがある。 … 一方、思い出は引き出しには入っていないし、頭の中にもいない。それは私達の体の中に宿っているのだ。まどろんでいるが、彼らは生きて呼吸をしていて、ときどき目を開く。… 思い出は、手のひらに、足の裏に、鼻の中に、心臓に、ズボンの尻に宿っている。以前経験したことが、何年、何十年経って、突然戻ってきて、私達を見つめるのだ。」
(第5章から 和訳:Okabe) ケストナーの足跡を辿って 2004年にドレスデンを訪ねたとき、街は復興の工事の騒音に包まれていました。ドイツ統一から14年近くの月日が流れ、建物や街路の修復が進みつつありました。聖母教会(Frauenkirche)は、その外観をなんとか取り戻し、内部の工事が行われていましたが、教会前の広場(Neumarkt)はまだ発掘現場のような状況でした。ケストナーの生家のアパートと、少年時代を過ごしたアパートのある、ケーニッヒスブリュッカー通りは空襲をまぬがれて、古びた建物が並んでいました。48番地のアパートの前に立っていると、偶然入り口の扉を開けた男性が、中に入れてくれました。私は、急いで階段の写真を一枚撮りました。今思えば、ケストナーの住んでいた4階まで探検するべきでしたが…。 最近訪ねたドレスデンは、復興工事も一段落しエルベ河畔の観光地の趣を取り戻していました。復元された建物も多いのですが、「20世紀初頭のドレスデン」の面影は断片となって散見するのみです。地図を見ながら辿ったケストナー少年の足跡にも、百年あまりの月日の流れを感じざるをえませんでした。 ケストナーの詩 → ケストナーについての記事(ブログ) http://melange.sblo.jp/category/4164392-1.html |
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生家のアパートの銘板 「ケストナーがここで生まれた」 |
爆撃で壊滅的な被害を受けた旧市街の建築群はかなり復元され、美しいシルエットが昔を思い出させる |
ケストナーが育った地区のエルベ河岸で旧市街を望む バロック建築の街を作ったアウグスト強王の像 |
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ケストナーが通ったカフェの前に立つ記念碑 |
2014年、修復されたフラウエン教会前で、大道芸人がシャボン玉を飛ばし、子ども達がそれを追いかけていた |
高架鉄道の壁に描かれたドレスデンの市電の変遷 20世紀初頭には、馬が市電を引いていた |
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